ベルギーフランドル交流センターのあゆみを述べるにあたって、まず、1970年についてお話しましょう。 この1970年は、間違いなく日本と世界、なかでも関西と世界とをつなぐ絆が結ばれた年だと断言していいでしょう。
大阪で万博が開催され、日本はこれまでに例を見ないほど世界中から大きく注目を集めました。日本は世界の人々を魅了し、夢中にしました。海外から訪れる人たちの好奇心は膨らむばかりでした。
大阪万博では、日本や各国の文化をより身近に感じてもらい、互いに理解を深めるための機会と場をたくさん提供することにしました。特に、力を入れたのが、紋切り型の日本のイメージを払拭することです。日本がどんな国なのか、世界の人たちに知ってもらうには、これは絶好の機会です。開催中、会場には連日たくさんの人が訪れ、お祭り気分一色に彩られ、大盛況のうちに幕を下ろしました。
けれど、関西人の胸中には、万博が終了してからも何か満ち足りない思いが残りました。できる限りたくさんの企画を立て、国民の大きな期待にも応えた、しかし、まだまだ有り余るほどの構想があり、それに対する期待も高まっている。そこで、大阪市と関西の府や県は、すでに実を結んだ交流や親睦の目標を、明確なものも、まだおぼろげな段階のものも、どんな犠牲を払ってでも具体化していきたいと心に決めました。関西の各都市と地域は、互いの交流に力を注ぎ、さらに親交を深め、末長く付き合っていくことになりました。
こうした気運が高まる中、当時のベルギーフランドル交流センターの前身が母体となって生命を宿し、1974年、ついにその産声を上げました。これがベルギーフランドル交流センターの始まりです。さらに、初めて日本とベルギーが文化協定を締結し、日本にとっても記念すべき年となりました。
当初、ベルギーフランドル交流センターは、「パレストリーナ・インスティトゥート」という名でスタートを切りました。とりわけ力を注いだのは、西洋音楽のひとつの分野であるポリフォニー(多声)音楽の普及と研究、公演活動でした。その後、センターは活動の場を徐々に広げていき、単なる文化交流にとどまらず、貿易や海外投資を促進するためにも積極的な活動も行っていきました。
フランダース政府は、この活動が日本とフランダース地域との関係に重要な役割を果たし、今後、両者の関係が活性化する可能性をいち早く認め、最初の助成金が下りた時点で、政府がセンターの重要なパートナーであり擁護者であるとの位置づけを行いました。1983年からは、「ベルギーフランドル交流センター」に名を改め、フランダース政府からの要望で、日本での「フランダース政府リェイゾンオフィス」として新たな一歩を踏み出したのです。
1987年、ベルギーフランドル交流センターは大阪国際交流センター内に移転し、大阪市が管理する新しくて機能的なこのビル内で、新たな可能性と新鮮な息吹とともに発展をはじめました。1993年には、設立者でもある館長ロベルト・ヴリーゲンに代わり、現館長を務めるベルナルド・カトリッセがその任務を引き継ぐこととなりました。
カトリッセ館長は、フランダース政府の一員として勤務した経験(1988年から1993年まで)を活かして、文化振興や学術振興から、さらに活動基盤を広げていくことに尽力しました。これまでに行ってきた活動はいずれも高く評価され、企画も充実し、活動の場も地域の枠を超えて広がっていきました。また、現代音楽、文学、写真や絵画、ダンス、映画、オランダ語の各分野でも、先駆者としての立場を築き上げました。これからも、フランダースはもとよりベルギーひいてはヨーロッパの魅力とヨーロッパ諸国間を固い絆で結んでいる共通の理念を、さまざまな活動を通じてお届けしてまいります。
海外投資の魅力を伝え、海外貿易の振興のための活動もますますそのニーズを高めてきました。フランダース政府によって設けられたフランダース政府貿易投資局(F.I.T)が、専門的にその任を負うこととなり、当センターは、文化交流と学術交流に関して、より深い内容の活動拠点の場を提供しつづけます。
2000年代に入り、「ベルギーフランドル交流センター」の名は関西一円に知れ渡り、文化活動における卓越したリーダーシップが認められ、おのずと信頼の輪が広がっていきました。とりわけ音楽行事に関しては、完全な会員制から始まったものが、次第に口コミで広がり、今では膨大なネットワークまでになりました。
大阪ヨーロッパ映画祭では共同創始者として、フランダース映画を日本に普及させることを常に念頭におき、過去13年間、フランダース映画界の優れた作品を紹介してきました。映画祭の名誉会長から運営のすべてを委ねられた2004年には、ベルギーを代表する男優ヤン・デクレール氏が来日を果たし、知名度は頂点を極めました。
言語に関しては、「ヨーロッパ・ランゲージ・デー」や「ヨーロッパ・オープン・ドア・デー」を主催し、他のヨーロッパ機関と共催しながら、オランダ語のデモレッスンや文化紹介をおこないました。また、毎年テーマを決めて意見を交換しながら、その年を振り返るシンポジウム「日本・ヨーロッパ文化交流デイ」でも大きな役割をになっています。